昭和50年11月18日 朝の御理解
御理解 第85節
「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日どおり」
大変難しい事です。けれども本当にこの「不浄、毒断ちなし平日の通り」と言った様などういう場合でも、お産と言えば女は大役と言われる。そういう大変な事に直面しておっても「平日の通り」というおかげを受けられるためには「生まれた子には五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし」と言う様に又は「腹帯をせずして、産前身軽く隣知らずの安産」の、おかげを受けると言った様な所までは、もう是は観念の世界というものを、抜け切るらなければ出来ることではないと思います。
「やっぱり腹帯をした方が良かろうごたる。やっぱり生まれてからすぐ乳を子供に飲ませるのはどうだ」と言った様な、観念と言った様な打ち捨てるような。矢張りある意味で度胸がいるというか、神様を信ずる力というな必要です。だからある意味ではいさぎよい心が必要であると言う事です。ここん所をね、私は「不浄、毒断ちなし。平日の通り」というおかげ。これは女の身の上のだけ事だけではありません。
もう一事が万事の上に、一分一厘不浄ということは成就しないと言った様な心が「毒断ちなし」言うならば、毒なものというものは絶対ない。あるものは一切神様の御都合であり、又は神様がより本当な事を解らして下さろうとする御都合以外ないのだから。だから、どう言う事であってもです問題が問題にならない。平日の通りなのです。色々問題がもしあるとするならば、もう本当に私はお道の信心を頂いておるにも拘らず、こんなに問題がある事は、矢張り問題を問題としておるから。
その問題を問題とせんで済むおかげを頂くために、より本当な事を解らして下さろうとする御都合だと、もう頂き抜く稽古を本気でさせて頂く稽古をする外ない。昨日福岡からというて二人お参りされた方がありました。「以前に一回お参りさせて頂いてお願いをしとったけど、大変おかげを頂いたから」と言う。まあわざわざの御礼参拝じゃなかったけれどもこの前を通るからというので、一人の方を一緒に同道されました。その方に対する御理解でしたけれども、御理解を頂きながら成程そうだなと思った。
「信ずれば成り、憂うれば崩れる」という、あの御理解を頂いた事がありますが、この「信ずる」と言う事は「成る」事は、問題ないでしょう。けれども仲々信ずると言う事が出来ない。だから不平があり不足がある。又は問題があったりするのです。神様を信じていないからです。ね、だからこう言う事では、本当の成就にはならないと言うので、愈々神様を信ずる力を頂くために、本気で信心の稽古をしなければならない。信ずれば出来る一切何事でも成就するのです信ずれば。
その信の力がないから、不平不足があったり。又は問題があったりするのです。問題でもない事を問題にする訳です。そこでです信ずると言う事は難しいけれども「憂うれば崩れる」というここの所を本気で取り組ませて頂く事はさ程に難しい事ではないという御理解でした。不平は言わん不足は言わん、憂うる心は出さない、ね。昨日善導寺の久保山さんがお届けをされます中に、「最近もうどんな事があっても腹を立てない」という修行を、本気で取り組んで段々それが自分のものになって行きよんなさる。
それでまた昨日新たなお届けがあって。愈々それが本当なものに腹を立てる所か、却って御礼を言いたいような心の状態を頂かして頂く。また改めてそのお届けがあった。私は、そのお取次ぎをさせて頂いて、すぐその後に頂いた事でしたから、また届けてみてから見えてからお話しようと思うたけれど、とうとうそれが出来なかった。もう腹を立てないという修行させて貰うと言う事、素晴らしい事です。
その上にもう一つ不平不足を言わん、思わんという修行されたら愈々鬼に金棒です。もう腹を立てん、ぐうぐう言うて堪えんならん事もございましょう。けれども今申しますように「不浄、毒断ちなし」と。こういう心では物事が成就しない。毒でもないものを毒にして自分が頂いておると言う事を思わせて頂いてです、それこそ熊谷さんじゃないけれども、起きて来る一切の事は、より本当な事をより解らせて頂くため以外にはない。もう私は、この信心が出来て行く以外ないです金光様の信心をね。
そこでそこに問題なら問題がある。難儀なら難儀があるならばです、これによって神様はより本当な事、どこを本当の事を分からせて下さろうとしてあるのだろうかと取り組んだら、もうそこに問題はないのです。昨日福岡のお二人の方が頂いて帰ったように、もう本当に、そのまあ二回目のお参りでしたけど、もう本当に合楽でなければ頂けない御理解を頂いて、これからその事に取り組ませて頂くそうです。不平は言わない不足を言わない。憂い心を言わない。
もうそういう行き方をするなら、絶対ここに神様が現れなさらんはずがないのですね「不平不足を言わない。腹を立てない憂い心を出さない」そこに取り組ませてもらう。所が憂えなければ居られない様な事、又不足を言わなければ成らない様な事があっても、「ああここに不足を言うちゃ修行がくずれる」と思うて。ですから「信ずれば成る」と言う事は難しいけれども、「憂れば崩れる」と言う事を身につける事は安易です。
それが身について行く事によって、愈々神様を信ずる力は、愈々いや増しに増して行く訳です。だからいわば「信ずれば成る」と言う事も一緒に成就して行く事になるのです。昨日一昨日でした。神様のお声で頂いたのが「福、福々しい三福寿司」と頂いたんです。だからこれは高橋さんだろうと思ったから、高橋さんにだけ申しました。普通は「福々しい」だけで良いでしょうが、「福々しい三福寿司」だけで良いわけですね、言うならば。頃が「福、福々しい三福寿司」と頂いたんです。
だからこれは頂きながら、高橋さんにもその事を勿論申しましたが、それは有難い御理解ごたるですね。福々しい上にまた福がついたから、そういうふうな「福々しい三福寿司」と言う事になったら、さぞ良かろうという感じがするんです。所が今朝また頂いたんです。そしたらねそうじゃなかったんです。福がいっちょ多過ぎると頂いたんです「福々しい」で良いでしょう。それに福が多いだからその「福、福々しい」という三つの中から一つ引いたら、福々(ふふく・不服)と言う事になるのですね。
だから不服を言うなと言う事です「不服の多い三福寿司」と言う事なんです。福がいっちょ多過ぎると言う事なんです。どんなに素晴らしい信心をさせて頂いても、その不平不足、これがあったんでは本当のおかげに成就しない。そりゃ不服高橋さんの場合なんかは、今経済の上でもです、またそれから人間関係の上でもです。大変な問題が次々とあるわけです。だからそれを不平に言い、不足に言うておったんではおかげにならん。それこそ、より本当な事を解らせて下さろうとする神様の御神慮だと頂く。
神様がこの様にして力を下さろうとする働きだから、本気でまあひと頑張り頑張らにゃ、と言う事に成る訳です。福がいっちょ多すぎるわけです。三福の方が良かろうごとあるばってん、これは「福がいっちょ多すぎる」という御理解であったことに、今日頂かしてもろうて、これは高橋さんだけの事ではない。今日の御理解から頂きますとです、本当に、日々が平日の通りと言う様な。
今月今日有難しという日々を過ごさして頂くというためにはです、なら雨もありゃ風もあるけれども、その雨も有難しその風もまた有難し、と頂いて行く信心を身につける以外にはないでしょうが。そこでなら具体的にです「憂うれば崩れる」のですから、不平不足言えば崩れるのですからそういう問題に直面しても、それこそ頭を打ち振ってです、「ああ、こんな思い方では、おかげが崩れる」と、例えば言いたかろうけれどもそれを「生神金光大神様」と胸撫で下ろさして頂けれる。
おかげを頂いて行く内に成程言う事はいらなかった、言うては間違いであった。思うておった事が、間違いであった事が解らして貰ろうてです、その「憂うれば崩れる」という、その憂うと言う事を、私の心の中から取り除いて行くならばです、そこには「平日の通り」というおかげが受けられるのですから、その平日の言うならば平生心に対して、おかげを神様が限りなく下さる事であるね。
そこに神を信ずる心は、愈々強うなる。そこに「成程信ずれば成る」と言う様な、言うなら確信に満ちたおかげが頂かれて、お徳を受けて行く事になるのです。昨日やつなみの(鶴見教会)十一月号を送って来て下さいました。いつもこれは鶴見教会(横浜市)から送って下さるのです。それを一寸この裏の方にこういう素晴らしい事が書いてあって。真実この通りだと思います。
だから今日の御理解を頂いて、心においてこのことを頂かれたら素晴らしいです。ええですか「金光教の信心をさせて頂く」とあります。そして
一つ身体も心も健康になります。
二つ、子供や孫達が信心の道に入り、世のお役に立ち、末長く繁栄致します。
三つ、家庭が、円満になり、今日一日が楽しく、明るくなります。
四つ、財産も出来、精神面も豊かになり、生きる喜びが心から自然に出て来て、力強く 、将来に希望が生まれます。
五つ、強い信念と、力と、人徳、神徳が頂けます。
六つ、金光教の信心は教会の参拝から始まります。
もうこの通りいっちょも嘘はないです。だからこれに一つでも欠けとるなら、まだ信心が足りんと思わなければならんです。これはもう絶対本当ですこれは。いかにも宣伝文句のごとあるけど、金光教の信心すれば絶対、この言わば五つのおかげが頂かれるです。こういう素晴らしいおかげが頂かれる、金光教の信心させて頂くことなんです。そいけんちゅうちから、なら毎日皆さんが参りよったっちゃです、参りよりますからこのおかげを頂くのじゃない。
今日皆さんに聞いて頂いた様な所を、内容としての信心になればと言う事を。私はこれにもう一つ付け加えたいのですね。これの本当にそうです、合楽ではこういうおかげを段々頂いていかれる方は沢山あります。いわゆる貧、争、病のない世界に住んで行かれておるのです。しかもそれが愈々子にも孫にも伝わって行くだろうと、言うならば一家を挙げての信心になって行っておいでられますがです。
尚これを確かなものにして行くことのためにです、どうぞ今日は、八十五節から、私は、この八十五節というこの御理解は、大変言うならば、人間のいうなら観念世界から抜け出なければならんという程しに難しい御理解だと思うです。それがいつの間にか自ずと観念から抜け出る事が出来る「不浄、毒断ちなし。平日の通り」と言う様な心の状態が開けてくる所から、このいま鶴見教会で出しておられる。この本に書いてありますような、おかげがお互いの身の上に現れるわけです。
だからどの一つが欠けておってもです、自分の信心のまあだまあだ精進が足りんのだ。今日の御理解を頂いて、今日の御理解からまだ不平が多過ぎるんだ。不足が多過ぎるんだと心がどうも平常ではない、腹ばっかり立って仕方がない、ね。心配になって仕方がない、腹が立ってどんこんされんと言う様なです、事ではいつまで経ってもこういうおかげは受けられんのですから、それを具体的に自分のものにする事のためにです、本当に「憂うれば崩れる」という。これは大真理です。これは天地の真理ですね。
悔やんだらおかげにならん、その事実をですなら「信ずれば成る」というおかげを頂く前提としてです「今日からは悔やまんぞ。不足を言はんぞと憂うる心というものを出さんぞ」という、これならばですおかげを頂こうと思うたら、不平を言わにゃんならん事が起こって来てもです、グッと抑える修行なら出来ん事はないでしょうが。けど信ずるという事は、そんなに一遍に出来る事じゃないです。
一足飛びには出来んです。そう言う所を繰り返さして頂きながら、いわゆる確信という、そこに確信に満ちた安心の生活、そこには「信ずれば成る」という素晴らしいおかげの世界がひらけて来る。そのおかげの世界をこの六つの箇条書きにして、鶴見教会では稽古をなさっておることが感じられますね。金光様の信心するなら、まいっちょどうでんそこんところのおかげを頂きたいですね。
それにはまず悔やむ前に喜びを発見せにゃいけません。本当に喜びをいうなら感動的なものに、それが動かにゃおれないものに仕上げて行かねばいけません。いわゆる日参しなければおかげが頂かれんのじゃなくて、日参しなければおられないおかげを頂かにゃいけんです。昨日丁度午後の奉仕の時でした。高芝さんと頃の隅井さん達が、親子四人連れで参って参りました。色々お届けをしてその後にです、何かモジモジしてから何かこう、お届けのしにっかごたる態度をしなさいますもん。
それで何か特別のお届けがあるとじゃろかと思うてから「何ですか」と私が言うたら「実は、先生、富久信会が興ってからこの方、まあ言うなら、去年から今年を対比しますと、丁度去年の売り上げが、倍づつ売り上げが多なっとります」と言うんです「そりじゃけん、どうしたら良いですか」と言われるけん。私は耳が遠かもんじゃけんね「この頃は、売り上げが半分になっとるけん。どうしたら良かじゃろか。」
と言いごたると思うたです。それで又聞き直したら「いや正しく去年より、倍づつ売り上げがありますが、どうしたら良いですか」じゃんね。それを本当におかげと実感出来てないわけです「ああ今年はふがよか。今年はやっぱり自分たちが頑張ったけん」と言う様なものが、自分のなりにあるからなんです。だからそれではつまらん、自分がしたからじゃだめです。本当に「お父さん達があれだけ信心して頂くけん、おかげで家は繁昌しよる」とぞと、家内にも話し合えれるようなおかげを、頂かにゃいけん。
そこには不平もなくなりゃ不足もなくなる。そういう喜び合いをしておると。「どうするじゃろうか」ちゅうち「そりゃ自分で考えにゃいくめえ。もうあんたとにかくそれを、本当におかげをおかげと実感させて頂いたなら、どうかせにゃおられん信心が、そこから生まれて来るんだよ」と。それを本当におかげと実感出来るおかげを頂かなければ、次にまた、また来年は倍増してというおかげにはつながって行かない。合楽にはそういう人達が、まあだいくらもあるから素晴らしいと思うです。
おかげ頂いとって、おかげをおかげと感じきらんでおる。実際はしんじんでおかげを頂いておるとじゃけん。それもなら私の耳にまだ入っておらんのであり、お取次を頂いて、御礼を申し上げると言う所まで高められていないという人達が、沢山あると思うです。今の様に沢山の神様縁を頂いてお参りして来とる人達はそうなんです。おかげ頂くからやっぱり参って来るのです。
そして次に参って来た時はまたお願い、そして又次に参ってきた時にはまたお願い。おかげを頂いた事の御礼の言い道すらわからない信者が、今合楽には沢山あると言う事です。しかし有難い事です、ね。そういう人達が本当に解り出した時が、私は合楽の愈々発展した時だと思うのです。どうぞ皆さんお互いが「不浄、毒断ちなし。平日のとおり」のおかげが、頂けれるような信心を身につけて。
いわゆるここに六つの箇条書きで、皆さんに聞いて頂きました。そういうおかげが本当に頂けれる。愈々以て合楽で言われておる「貧争病のない世界」それこそ「真善美に輝く世界」そういう喜びをです、所謂そういう光の輪を拡げて行く。いわゆる光輪の世界を拡げて行く所の働きにまで、信心が進んで参ります時に、愈々神様に喜んで頂く氏子としてお取り立て頂く事が出来ると思います。
どうぞ。